「労働は自由をもたらす」

パリの居候先のS女史が行きたいと言うので、当初私の予定にはなかったポーランドに行くことにした。目的はアウシュビッツ訪問である。

先の旧ユーゴ諸国を旅行している間に韓国の盟友キム・サヌォーン氏に紹介されていたアメリカ人の女性・レスリーがちょうど今月よりワルシャワに住み始めたと言うので、彼女も誘って一緒に行くことになった。
アウシュビッツ強制収容所のあるオシフィエンチム市は、ワルシャワから南へ約300kmほど行ったところにある古都クラクフから、更にバスで50kmほど西へ進んだところにある。個人で訪問する身にとっては決して交通の便がいいとは言えない場所ではあるが、現地はたくさんの観光バスが乗りつけて、朝9時過ぎの到着でも受付は既にパンク状態であった。

現在の収容所は、元々収容されていた人たちが「住んで」いた建物を改装して展示施設にしたり、当時からの姿のままで残っているガス室や火葬場などの中を見られるようにしてある。

「労働が自由をもたらす」



Zyklon B


夥しい量の刈られた髪。ドイツに輸出され繊維製品の材料となったらしい。



銃殺刑場


ガス室


絞首刑場

各部屋に付いている説明文は、感傷的なものがあえて排除されているのか、あくまで事実を述べるだけの淡々としたものだった。別にナショナリスティックになることもなく、ここで何が行われ、どういった人々が過酷な運命の中で、命を落としていったのか、ということだけに始終するような。
いくつか進んだ建物の中に、収容者のID代わりとなった識別用の縦縞の服を着ての証明写真が廊下にずらりと並べられてあった。写真の下にはその人の氏名、職業、連れてこられた日付と亡くなった日付が記されていた。ほとんどの人は収容後2,3ヶ月で亡くなっていたが、その月日、その人がかつて行っていた職業を思うと気軽にカメラを向ける気にはどうしてもなれなかった。別にひとつの光景として撮ってしまえばよかったのかもしれないが、それができなかった。

クラクフよりワルシャワへの帰りのバスの時間と、またそんなに本数のないオシフィエンチム-クラクフ行きの電車の時間もあり、あまり十分な時間が取れなかったので第一収容所のみの滞在だったが、実際にその蛮行、いや、これと同時代の自分たちの先祖がその手を血染めにして行った事実があるにも関わらず、こういった人間性の負の史を身近に感じることのできない一現代日本人の感覚からすれば、蛮行という言葉ではまったく足りないのであろうが、その一連の「行為」が行われたその地に立ちそれらを想像するだけで、じかに見たひとつひとつの光景が自分の頭の中で折り重なり、あのレンガ作りのバラックと鉄条網が持つ虚とした異様な空間も作用して、ナチス、ヒトラーはこの収容所を作ることで何を求めようとしたのか、という根本的な問いに辿り着く。あまりにオカルティックで脱線した話なのかもしれないが、ナチスは悪魔主義に近づいたりヒマラヤの地底にいるというアーリヤ人に会いにチベットを訪問したり、果てはUFOを開発しようとしたりと、そういった傍流の断片的な情報は頭のどこかに残っているのだが、基本的に不勉強な私は遅蒔きながら、その問いについてこれから考えなければならない。それは私がここを訪れた後にできる最低限のことである。

収容所は昼近くになり、更に観光客でごった返してきた。日本人ガイドが日本語で説明し、それを熱心にメモする日本人グループも見かけた。つまらなそうに引率の先生に付いていく西ヨーロッパの修学旅行生らしきグループもたくさんいた。イスラエルの旗を背負い棟から棟を巡る老人もいた。
帰りにまた「労働が自由をもたらす」の門をくぐる。この標語を真に受ければ、今までの私の生活で、労働が自由をもたらしたことは果たしてあったのだろうかと考えながら、三人でオシフィエンチム駅まで歩いた。

01. October 2012 by sats
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