20170430

最近の日本の映画や小説をそこまでちゃんと追っていないので、エラソーなことは言えないのだが(特にここ最近の映画は何だか安っぽくて流行のアイドルや俳優が出てる、という話題性だけで作られているような気がして、自然とほとんど見なくなってしまった。最近DVDで見たのだと『ディストラクション・ベイビーズ』はatg映画みたいで良かったんだけど)、韓国のこういった表現はいつもものすごく先鋭的で、それはどこから来ているのだろうかと考える(まあ韓国の映画にも、アイドルのためのしょうもないのもあるのだろうが・・・)。
韓国の友人たちと喋ったり、メールしたり、彼らのSNSなどを見てると、今ニッポンで話題の「忖度」(別に忖度なんて今に始まったことじゃなくて、この国には昔からずーーーーっとあったことだと思うけどな。だって頂点には絶えずテンノーがいるんだし)とは程遠いところに、みないそうだ。何かをするのに邪魔なヒエラルキーみたいなのは真っ向から否定しようとしていたり、まわりから何を言われようが、自分のやりたいことをやったり。それが個々人の間でぶつかってケンカして、仲悪くなっちゃった(非難しあっちゃった)、というのもよく聞くが(最近もまた友人同士の残念な別離の話を聞いた。悲しい…)、それもまあ「空気を読まない」ことの裏返しだろう。何だか清々しく生きている感じだ。
ただそういう友人たちも、異口同音に「韓国は生きにくい」と言う。ヘルチョソン(地獄朝鮮)という言葉もあったが、社会はそれだけガチガチで、またそのガチガチにがんじがらめにされながら生きることを、まわりが、家族が強要してくるから、それに対してNO!を体言しているのかもしれない。この前読んだハン・ガンの「菜食主義者」はとても辛い物語だが、そんな話でもある。とても美しいバートルビーとでも言うか。

その少し前だったか、ナ・ホンジンの『哭声 コクソン』を見た。これは正直わけがわからなかった。表向き理由として出てくるが、マジックマッシュルームで片付けられる話ではない。ベン・ウィートリーの「A Field in England」とは違うのだ。日本人に対する差別も明らかに内包した話だが、逆に日本人にとても敬意を払って、國村隼を使っているようにも見える。次に韓国に行くときは、もうソウルはいいので地方に行ってみたいといつも思ってるんだが、そういう韓国の地方が舞台。山々はとても綺麗なんだが、ストーリーは、韓国の土着的宗教とキリスト教との対決なのか、その中でキリストは悪魔として復活するのか。よくわからないので、本国では大ヒットしたというので(こういう類の映画が大ヒットするって、いい文化環境だなあとつくづく思う。それでもヘル朝鮮なのかもしれないが)、韓国のある友人にどう思ったか聞いてみたら、ナ・ホンジンはイヤな奴で国際的な成功を狙ってるから、オリエンタリズムを逆手に取って、ステレオタイプな「韓国的なもの」をテキトーに、思わせぶりに散りばめた、頭でっかちの粗悪映画、とボロクソに言っていた。そこまで言うか、というくらいボロクソに。彼が意図することとしては、ナ・ホンジンは、日本で言う河瀨直美のようなものか。
『コクソン』、もう1回見てもいいのかとも思っていたが、なんだか彼の言ってることもあながち間違いではない気もするので、そんな暇があったら他の映画を見よう。『お嬢さん』を結局見れてないので、この連休中に見なくては。

もうひとつ韓国といえば、ソウルでのライブが一連のパク・クネ弾劾デモとかぶってしまい、みんなデモに行っててお客さんがあまり来なかったことに対して文句を言っていたバンドがいたそうだが、さすがにこれはジョークだよね、さすがに…。

30. April 2017 by sats
Categories: books, films | Tags: , , | Leave a comment